マイツの小部屋

陰キャのための音楽ライフ

チラシの裏_010 音楽聴くのもサブスクの時代

音楽と年代的に絡めた話をする時、鉄板の話題が幾つもありますよね。

 

レコード、カセットテープ、CD、MD...といった音楽の形態の変遷の話。

 

ちなみに私は幼少の頃、どこかでレコードを見たことがあり、家族がカセットテープで音楽を購入していた見覚えがあり、自身はシングルCD(あのちっこいCD)がある頃に自分でCDを買うような歳頃になった、といった年代。

 

そして時代は変わり、ダウンロード販売という時代が訪れ、遂にはサブスクなんていう時代にまで到達した。

サブスクって何よ?そりゃあ概要としては知っているけれど、今一つ具体的な仕組みは理解しきれていない感じ。

アーティストさん達にはちゃんと適正な対価が支払われているのか?的なことだったり、視点は色々あるけれども。自分自身が音楽を楽しみ上で、という視点であれこれと考えてしまう。

 

 

職場の都合で、次々と訪れる若い世代と接点を持てる環境に居たので、よく音楽の話を聞くんですよ。

ほんの数年前までは、まぁまだ理解が及ぶ範囲だった。

CDは買わないですねぇ。

ダウンロードとかですねぇ。

あんまり音楽を買うってことはしないです。

YouTubeとかであれこれ見られますからね。

あー、親はCDたくさん持ってるなぁ...

うんうん、そうなるよねぇ。と納得しながら聞いてたのだけれど、今年に現れた新星は遂にこの一言を仰られた。

 

全部サブスクっすね。

 

それはもう反射的に、自分の頃はこうだったなぁ...なんて思ってしまうものです。

自分がその環境で育ったから。自分がそんな環境で音楽と向き合ってきたから。馴れ親しんだ形こそ最高だよ、と思うのは当然だよね、という前提はあるとして。やっぱりCDのように「形として音楽を買う」のが好きだなぁ。

 

まず、歌詞カードは欲しいよね。歌詞なんて検索すればどこでも見られる時代だけれど、それとこれとは別問題というか。

歌詞カードをどんな形で作るか、というところまで、表現者の仕方の一つだと思うんですよ。どんな文字で書くか、どの漢字を使って、行間を使って書くか、背景の用紙は白いのか黒いのか。なんなら歌詞を掲載しないのか。

楽曲を表現する一つの手段として、歌詞カードという媒体は非常に有効だった。ジャケットのようなアートワークとも相まって、楽曲の雰囲気を表現するのに一役も二役もかっていた。

 

音楽データという形になることで、色々な物がそぎ落とされて行って、表現する側の手数が減ってしまうというか、そんな心配をしてしまう。

 

そして良い面でも悪い面でも、「その音楽に対して自分がお金を支払ったんだ」という感覚は欲しくなってしまう。

お金を払ったからこそ、大事に聴きたいと思うし。お金を払ったからこそ、自分に合わない音楽は「失敗したなぁ!」と印象に残るし。

 

音楽の不意打ちの力も、当然知っているんだけれどね。テレビやラジオから流れて来た音に耳を奪われる、あの衝撃。そういった形だからこそ得られた出会い。

けれど、出会ったその結果、「よーし自分はその音楽に対価を支払って手に入れるぞ」というプロセスを経ることで、自分自身がより楽しく音楽を摂取出来る。

 

 

サブスクという形が台頭して来たことには、不可避の理由や流れがあったんだろう。それは商流の話であり、生活の中における音楽の在り方の変化の話であったり。

世の中の流れはきっと変えられないし、サブスクでしか音楽を聴かないと言った彼も、彼なりの形で音楽と共に楽しく生きていくことだろうと思う。

 

サブスクなんてくだらねぇ!お前たちは音楽の良さは解っちゃいねぇ!なんて叫ぶような人も、まぁそれはそれで良いかもしれないけれど。

俺らの時代はさぁ、CDって言ってさ。これはこれでドキドキワクワクで良いもんだったんだよ?シングルCDなんてさ、なんとケースが半分にぱきっと折れてコンパクトになるんだぜ!

なんて、屈託のない笑顔で古き良きを語っちゃうような、無害な年配になっていきたいものです。

 

正直、自分もCD購入とダウンロード購入、半々くらいになって来たしね。

サブスクは嫌いというより、解らん!

もちろん、見て聞けば解らんはずはないんだけれど、解らん!という理由で、まだ少し距離を置いていたいのだと思う。

 

いつか手に入れた音楽が年月を経て、埃をかぶった時。

無限のクラウドデータの中からぽつんと現れるよりも、物置の奥から色褪せた年代を感じるジャケットと共に発掘された方が、ロマンがあるってもんだよなぁ。

 

色褪せないということは、デジタルの最大の利点であり、最大の弱点でもあるよね。