マイツの小部屋

陰キャのための音楽ライフ

人生を微分?積分?本音はどっち?

ブログ以外にも、完全個人用の日記を書き出してもうすぐ二か月。この習慣、続いております。

 

ブログはやっぱりブログ。知人ではないにしろ、自分以外の方が目にする可能性を排除し切れないわけですから、それなりに体裁を整えて、小奇麗になるように努めた、余所行きの文章、ということになります。

一方で完全個人用の日記は正に書きなぐり。誤字脱字お構いなし、文法なんてありゃしない。個人名出し出し、生の感情マシマシ、悪口やネガティブ発言もつゆだく状態。それなりに住み分けがされます。

 

そしてここでふと湧き出る疑問。どちらが私の本音と言えるのでしょうか?ぱっと見は後者が本音と言えそうですが、より意味のある本音は前者ではないか?と思うのです。

 

あぁ、これらは人生を微分するか積分するか、それだけの違いなんだな。

 

こんな面倒くさい思考が生まれました。微分積分?なんそれ?という方も多いかも知れませんが、微積の概念っていうのは本当にあちこちで見受けられますよねぇ。せめて理系の方には伝われ!

 

 

例えば後者_個人日記の生の声は、その時その時に瞬間に現れたピュアな感情です。それがホンモノであることは間違いありません。瞬間の変化量、瞬間の状態、のようなもの。つまり、人生のその瞬間を微分したようなものでしょう。

SNS掲示板で飛び交う瞬発的な声。むき出しの感情。全ての気遣いや配慮を取り去った「純粋に思い、感じたこと」。確かに、より真実に近い気もして来ます。

 

ここで妄想してみましょう。仲睦まじい熟年夫婦が居るとします。時には喧嘩をして、意見の相違もありながら、長い年月を共に過ごし、お互いを尊重して大事に思い合っているひとが居るとします。

この方々が喧嘩をした時。怒り、哀しみ、イライラ、そんな感情は当然生まれるでしょう。「仲が良いなら本気で怒ったりしない」というニュアンスもあるでしょうが、瞬間的に生まれるイライラ等は、本物でしょう。親しく付き合った上で、一度も負の感情を抱かなかった相手なんて、居ないんじゃないでしょうか?

 

では、この瞬間の感情、イライラこそを真実としてしまって良いでしょうか?相手を疎ましく思った瞬間の感情がホンモノだから、この2人はお互いに憎み合っているのでしょうか?いやいや、それは違うでしょ、と感じるのが普通でしょう。

生の感情が全てではない、その一瞬の感情が全てではない。トータルで見て、長い目で見て、蓄積された物をもって、初めてひとの本当の気持ちという物は現れるものです。これは、人生をある程度の区間積分したようなものでしょう。

 

 

日々、私達は生の感情と、理屈や理性を折り重ねて生きています。取り繕い、カッコつけて、建前も大事にして、社会で生きるために、ルールを守って、生きています。

上司に好かれるために嘘を付いて演じる、という行為は偽りと言えるかも知れませんが、人目を気にして無意識に正しい行動を取ろうとする姿勢、は偽りとは言えないでしょう。

 

本当は〇〇だと思うけれど、付き合いやら何やら、色々な物事の兼ね合いでこういう行動を取ってしまう、という場合。この結果としての行動こそが真実に近いのではないでしょうか。

近所に吠えるうるさい犬が居たとして。うるさいなぁ!怒ってこらしめてやりたいぞ!と刹那的な感情が生まれた人でも、大抵は実際に犬を叩いたりすることなんてないでしょう。「犬への怒り」は瞬間や個人の真実に、「犬を叩かない」が生活や社会の真実に近いのでしょう。

 

日記に書きなぐってしまう、ドロドロした生の感情もホンモノですが、あれこれと取り繕って、偽っているかのような「作られた外っ面」こそが、回り回って本当は真実に近かったりするのかも知れませんね。

 

何が言いたいかというと、ブログの他に日記も書くの、おススメですよ。

 

こんなこと、初めからやられている方の方が多いのかも知れませんが...

 

 

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