マイツの小部屋

陰キャのための音楽ライフ

Youは何しにここに居る?

三回忌の法事を終えて。つらつらと書いております。こういう区切りのタイミングに現れるモヤモヤとした思考の思うがままに、キーボードをバカスカ叩いて現れるチラシの裏。いつものことですが、このまま残しておきましょう。

 

 

今は去った前職場に、悲しくも、自分と似た境遇の先輩がおりました。夫婦や家族の状況、病気について、看取りのための休職~復職の流れまで、本当にほとんど同じ動きを取った方がいらっしゃるのです。

異なるのは年代と、最終的に職場に残ったか、去ったか、の判断くらいですかね。

 

我々夫婦の2人共が、先方のご夫婦とそれなりに親しく面識があった間柄。更に先方と我々のバッドイベントが綺麗に順番に発生してしまったこともあって。お互いに想う所もあり、あれやこれやと、腹を割ったお話をさせていただくことも多いです。

先方はもう少しで還暦という頃合い。私は40年ちょっとの人生。それぞれに、何とも絶妙なタイミング。それぞれの立場に於ける、色合いの異なる悩みが満ちているようで。あれこれと話す中で、お互いが抱えている直近の問題は同じようです。

 

ひとことで言えば、この先に「何のために生きて行くのか?」ということ。

人生のお題目、なんて大それたことではなく「何を楽しみに生きて行くか」に近い感覚。そんな小さいことにつまずく...ということは、逆にそれだけ「別にこのまま生きていてもなぁ...」という感覚があるということです。

 

供養するためだけに生きているのか...早くあちらに逝きたいと考えてしまう。

 

というのは件の先輩のお言葉。正直な本音を吐露してくれることはありがたくも感じ、同じ境遇の自分にとっては感情のリアル感、手触りまでもがありありと感じられて、冷たい物が背筋を走る感覚もありました。

信心深く、真面目なこのお方は「供養」というキーワードに重きを置かれておられました。一方で仏事のような物事は「風習や文化のひとつでしかない」としてとらえている私にとっては、「供養」という物を人生の道しるべには出来そうもありません。

 

 

思考を続けてみます。

 

 

「生き方」を想定する多くの場面では、「何かを手に入れるための生活」という考え方が自然に当てはまるのだと思います。財産を得るために。欲しい物を手に入れるために。この「欲しい物」の中には、家族との生活や楽しい体験、老後の安心等も含まれるでしょう。

言い換えれば、「好きなことのために生きて行く」。好ましい物を獲得していくために、代償として時間や労力を捧げて行く。素晴らしいことです。

 

一方で、「少しでも失わないための生活」という考え方もあると思うのです。出来るだけ消費を抑えて、節約して、失う物を極力排除していく。

言い換えれば、「嫌いなことで死なないようにやり過ごす」。苦しみや嫌いなことを避ける。何だか消極的に聴こえてしまいますが、誰にとっての人生でも、必ずこうしたターンが訪れるはずです。

 

作品のタイトルや著者の記憶は曖昧ですが、ある小説で登場した、とても印象に残っている言葉、文章があります。内容としては、

 

人生は生まれてから、どんどんと何かを獲得していく。そしてある瞬間からは逆転して、どんどん何かを手放していかなければならない。そして最後は自身の命をも。

 

我々夫婦の闘病の日々は、正に後者でした。

明らかに迫る「終わり」を終着点として、出来ないことが増えて行く。外出が出来なくなる。段々と物が食べられなくなる。立って歩くことが出来なくなる。

けれどもそれは、苦しみと悲しみと困難「だけ」の日々ではありませんでした。この暮らしの中にも確かに「幸せ」は存在していたことを、強く強く覚えています。

 

適切な言葉がどうかは解りませんが。あの闘病の日々を通して、誰にでも訪れる人生の後半戦を、私も先行体感することが出来た、学ばせてもらえたのだ、と思います。

ここからの人生で、「獲得する物」もまだまだあるでしょう。ですが、あまりにも大きな存在を「手放す」ターンに足を踏み入れた私にとって、何かを勝ち得て行く生き方、というのはもうフィットしないようです。

 

 

生きるのは中々にしんどいです。指針や道しるべのようなものを、どうしても欲しがってしまう自分が居ます。結果、「何を楽しみに生きれば良いのか?」なんてことを難しく考えてしまう。

これ、ホントは楽しい話題のはずですよね。自分が何が好きで、何が楽しくて、何が幸せかに想いを馳せる。そして、その幸せにどれだけのリソースを配分するかを計画する。旅の計画を練るような、ワクワクするような話であるはずです。

 

このテーマに頭を悩ませて負担に感じる時点でおかしいんですよね。旅の計画を練るのがつまらないならば、計画なんて無しにさっさと飛び出すか、初めから旅になんて出なければ良いのです。

何をしたいか、何が欲しいか、という思考も良いけれど。前向きな希望が持てない時だからこそ、出来ないことから考える。消去法的に考える。

 

今だからまだ出来ること、今ならばこそ出来ること、を大事にしてみる。

 

それがやりたいかどうか、自分が望んでいるかどうかなんて、本当は関係ないのかもしれません。それほど興味がなく、価値があるとも思っていない物事も、「それが出来なくなってしまった途端」に、とんでもない価値が生まれるものです。無くしてしまってから大切さに気付く、的なやつですね。

 

もし足が不自由になってしまったら、ただ道を歩くという行為が奇跡。

もし胃腸を壊してしまえば、日常のごはんが光り輝く贅沢。

もし余命が明確になってしまえば、ぐだぐだ悩んで苦しむ日々も、巻き戻して取り返したいほどに得難き時間だと思うことでしょう。

 

 

今の内に、こんな日々を生きていられる内に。

大切に。丁寧に。

子供のように無邪気に日々と向き合いながら。

ひとまず今は、久しぶりにコンビニで買ったおにぎりの美味しさと、値段の高騰ぶりに驚く時間を過ごして居ます。

高くなったねぇ...おにぎり。100円セールとか、もうないの?美味しいけどさ。

 

どうしても何か特定の物事に寄りかかろうとしてしまうのが良くないんだよね。

安心して寄りかかれる「ぶっとい柱」がなくたって、足元には草が在って、土があって、そこには微生物が居て地盤があって、そもそも地球があるんだから。

数えきれない物事達が、既に自分をよいしょっと抱え上げてくれているんだよなぁ。

この美味しいセブンのイカめしおにぎりもまた、そのひとつなのでしょう。

 

 

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