朝、NHKのニュースを見ていてふと思う。「あぁ、今日は七夕なのか」。
七夕の想い出、何かあったっけかな?無意識に思考を巡らせて記憶をたどる...けれども、特に楽しい類の記憶は出てこないらしい。
それもそのはず、七夕をイベント事として認識したことなんて、基本的には無かった気がするなぁ...なんて。七夕というファンシーな夢物語に想いを馳せながら足を運ぶんだは、ハローワーク。なんとも夢の無い、ガッカリするような現実と、うだるような暑さにうんざり...していると、ふと願い事が掛かれた短冊が目に入ります。
いつもお世話になっているハローワークの出張所的な所は、役場の出張所機能も兼ねていて。近郊の子供たちが笹の葉に飾りつけをして、願い事を書いた短冊をぶらさげた、素敵なアートワークが展示されていたのです。
キラキラした子供たちの、くもりの無い願い事が掛かれた短冊達。昔の自分なら「あっそう」くらいのテンションだったけれど、この歳に寂しく生きていれば話は別。ついつい短冊のひとつひとつに目を運んでしまいます。
「スーパーマリオになりたい」
良いね!めちゃくちゃ良い!何だかもう理由もなく、「くぅ~っ」という想いがこみ上げてしまいます。そうかそうか、成れると良いね、なんて無責任な言葉も浮かんでしまいます。
このアツい願い事をきっかけに、私の記憶の奥底からずるずると掘り起こされる物がありました。
あれは小学生にもあがる前の話。実家の狭い狭い庭の一角に、ひょろっと頼りない竹が生えていました。そこに願い事を書いた短冊を飾って、一生懸命にお願いをしたことがあったっけ。その時の願いは今でも忘れません。
「ドラえもんのポケットが欲しい」
子供らしい、馬鹿げたお願い事です。叶うハズもない。けれども当時の私は、本当に、心の底から願っていたのです。そして、夢見たのです。ドラえもんのポケットが手に入った人生を。
当然、この願い事は叶いませんでした。ここで私は、幼いながらに「人生が終わった」かのような大きな大きなショックと絶望を抱いたのです。今この歳になっても絶望感の手触りすら思い出せるのですから、それはもう、本気で絶望したんでしょうね。
夢は、適わない。
願い事は、届かない。
幸せなんて、訪れない。
そんな幸せを夢見ちゃった自分への恥ずかしさ。
浮かれ切った心が一気に失望へ堕ちる時の喪失感。
大げさですが、当時は目の前が真っ暗になりました。私の人生の中で、ある種のトラウマとなったのは間違いありません。その経験は、私の生きる基本方針に大きな影響を与えていたのかもしれない!なんて今更ながらにしっくり来るのです。
先日の記事のように、私は大きな挑戦というものをして来ませんでした。
自分に幸せが訪れるなんて、期待したこともありません。
叶わないのならば願わない。手に入らないのならば求めない。
そんな、ちょっと寂しい生き方を、幼い頃から選択してしまったのかなぁ。
仄暗い気分になってしまった所で我に返ります。目の前には子供たちのキラキラした願い事。文字のおぼつかなさから、ドラえもんのポケットを願った当時の私と同じくらいの歳頃でしょう。
スーパーマリオになれたら良いね!なんて気軽に想ってしまったけれども。君も君なりに、今も真剣に生きているんだよな。例え君がスーパーマリオに成れなくても...いや、マリオにはならなくて良い気はするが、楽しい日々を過ごせるように、願っているよ。
参ったなぁ...と、漫画に出て来るおじさんのように頭をぽりぽりとひとかきしてから、ハローワークという現実へと足を運ぶ。この何とも冴えない、輝き一つないエピソードが、新たな「七夕の想い出」として私の人生にブックマークされるのでしょう。
そして、ハローワークの件のマダムは、今日も物腰柔らかで優しく対応してくれたことを付記しておきます。悪いことばかりじゃぁないよね。
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