マイツの小部屋

陰キャのための音楽ライフ

時が経てば_斉藤和義 時が経ったら...いつの日か

今日は2022年8月13日。

 

やっぱり、湿っぽい気持ちになってしまうなぁ。

 

今日はちょっと、いつにも増して好き勝手に。自分の想い出も織り交ぜて吐き出してしまおうかな。

 

斉藤和義の時が経てば。辛くなったら聴いてみて。

時が経てば

時が経てば

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まずは斉藤和義っていう存在ね。

男だよねぇ。

人は良さそうだし優しそうだけれど。甘そうには見えない。昨今芸能界に身を置く人は基本的に「良い人」「善人」「正しい人」であることが求められるし、いつも朗らかで腰は低く、という感じだけれども。そんな媚びる感じは一切ない。

 

前にMステに斉藤和義が出てた時。自分の番では無くて画面の端っこに映る姿。周りにはミュージシャンというよりも「タレントさん」な人達ばかりがはしゃいでいた回。

 

殺し屋みてぇな目してたもんな。

 

優しさはあれど、決して甘くはない数多の場を積んで来た熟年者。その人がこの歌を唄う、という点が一つの大事なエッセンスでもある。

 

 

さてこの時が経てば。なんだかもうまともな精神で聴けなくなってしまった。

 

ピアノの急降下のような音で始まるこの曲。どこか物悲しい雰囲気が漂い、物語が語られていくように進んでいく。

一昔前の物語ではよくあったシーン。ビルから飛び降りているようとしている人、それを止める警察、集まってくる野次馬。

 

時が経てば、忘れちゃうことだってあるってのに...

 

今日もどこかで誰かが、人生が終わってしまうような苦しみや悩みの中に居る。本当に終わってしまう人だって居る。

そしてその周りには、立場か、責任か、はたまた心からの行動か。苦しむ人を助けようとする人と、関係のない他人事として眺める世界がある。

 

この上ない苦しみの爆心地、その周りにはいつも通りの世界がある。

自分がのんびりしている瞬間、世界のどこかで誰かが苦しんでいるように。

自分が世界の終わりと思うほどに辛い時、周りの世界はただいつも通りにある。

 

世界にとっては個人の人生なんて、「それっぽっちのこと」であるということ。苦しむ自分を世界は言うほど構ってくれない。個人の苦しみを他人が理解することは難しく、救うことだなんて容易ではない。

 

頑張れ!とか。ご両親が悲しむぞ!とか。偉そうに説得しようたって無理がある。人生の崖っぷちに追い込まれた人が居る。そのすぐそばには、お米を送ってくれて電話をしてくる親を持つ人も居る。

 

せめて言えるのは、

 

時が経てば、笑っちゃうことだってあるかもよ?

 

 

うん。そうだよな。そういう物だよな。

個人と世界とのあり方に、少し寂しさを感じるようで。その距離感に逆に安堵するようで。複雑な想いを耳の奥で転がしているところにたたきつけられる言葉。

 

頑張れ!

負けんな!

頑張れ!

もうちょっとの辛抱だよ!

 

なんだよそれ。

頑張れ?無責任なこと言うなよ。死にそうなくらい頑張ってるわ。

負けんな?うるさいよ。負けちゃったらダメなのかよ。

もうちょっとの辛抱だよ?

ホントに?そうかな...もうちょっとだけ頑張れば、救われるのかな。

 

ぶっきらぼうな顔して。ここまでこんな歌を唄っておいて。そんなに必死に頑張れって叫ぶなよ。絞り出すような顔で、悲しそうな顔で、唄うなよ。

 

もう泣くしかないだろ、こんなの。

 

 

大人になれば否が応でも経験する。大人になれば解ってしまう。世界と個人との在り方。どこまでも個人は個人で十人十色。例え親しくとも他人は他人。心は一つには出来ない。

 

誰だって必死に頑張っている。鼻くそほじってるだけで生きてる人なんて(ほとんど)居ない。苦しみは本当の意味では理解し合えないし、助け合うことも難しい。

 

頑張れ!なんて言葉にどんな効力があるだろう。

励ます、応援する、なんて行為にどれだけの意味があるだろう。

 

それでも、言うしかない時がある。

それしか出来ない時が。そうすることしか出来ない時が。力の限り叫ぶことしか出来ない時がある。

 

それでもいつか、時が経ったなら...

 

 

 

はい、今日はここまで。本日もありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

外は枯葉が舞っていた記憶がある。秋ごろだったかな。

私達は車に揺られていた。

隣県の病院へ向かう、何度も何度も走り馴れた車通りの少ない田舎道。

コロナの問題があったから、自分は運転席で、あの人は後部座席に。

この曲は二人とも好きだった。けれどそれは元気だったあの頃の話。治らない病と先が見えてしまった人生の中で、この曲を聴くとは思っていなかった。

 

いつもランダム再生にしていたカーオーディオ。イントロで解る。あの曲だ...笑顔で聴ける状態ではない。けれど、この日はこの曲を飛ばすことが何故か出来なかった。

 

気まずい曲というのは他にもあった。その度にスキップするかどうかに迷った。それをスキップするということは、気にしているよとアピールすることに近かったから。

 

それこそ、「別れの曲」なんて聴けないだろう。聴けば悲しいし、手動でスキップしたら「別れを意識していますよ」という宣言に等しかった。

音楽が好きだった二人だから、この辺りは気を使って曲が入ったメモリの中身も整理していたけれど、この曲を見逃していたのか...不運にも掛かってしまった。

 

そして流れた。

 

頑張れ!

負けんな!

頑張れ!

もうちょっとの辛抱だよ!

 

去る者と残される者。二人にはそれぞれの耐え難い苦しみがあった。

自分がこの曲を聴きたかったのかもしれない。もしくは、この曲を聴いて欲しかったのかも知れない。苦しい毎日だけど、頑張ろうよって。誰かに言って欲しかったのかもしれない。

田舎道をゆっくりと進みながら、病院にたどり着くまで、二人とも大泣きした。

結局、そのことについてお互いに触れることはなかったけれど。二人に次の秋は来ることなく、私は独り残されてしまった。

 

 

あの時、この曲を聴いたことは正しかっただろうか?過ちだっただろうか?

 

「頑張れ」なんて言えなかった。明確な励ましの言葉を言えなかった。苦しみも葛藤も全てを隣で見て来た私が、そんな事を言えるはずがなかった。

それでも、「きっと良くなるから!」と励ますしかない時があった。その言葉に涙を流したあの人は、嬉しかったのだろうか、悲しかったのだろうか。

そんな単純な気持ちではないことも、解っているのだけれど。

 

悩み、苦しみ、手を取り合いながらここまで来た。

これから進む道の選択、困難への立ち向かい方、周囲の人達との向き合い方、日々の暮らし方、お互いのコミニュケーション。

その全てにおいて、その時その時に正解だと思った選択をして来た。そうすることしか出来なかったし、その選択自体に後悔はない。

後悔はない、と言えること自体は、我ながら、いや、「我々ながら」本当によくやったよ、という気持ちもある。

 

けれど。もっと良い道はなかったのか?相手は本当はどう思っていたのか?

その全てにおいて、?マークが消えることがない。振り返り、思い返す。

やれるだけやった。ただ、それが全て正しかったかどうかは全く別だ。

あの言葉。あの顔。あの曲。何もかもが心のあちこちにべっとりとへばり付いている。

この心の中の残留物は、このまま抱えていく他ないんだろうな。

 

 

けれど。こんな自分でも。ひょっとしたら?時が経てば...?

 

あれから初めて迎えるお盆は、台風上陸だってよ?こっちの心の中の方が嵐だっつーの。ホントに。

こんなんでこの先やっていけんのかな?なんて強風になぐ庭木を眺める。

 

そして流れるこの曲は「もうちょっとの辛抱だよ」と今日も優しく励ましてくれる。